武術同好会in千葉同好会のブログ

中国武術である戴氏心意拳を練習してます。同好会と冠するに、目的は今は人集めです。師は愛媛にいます。連絡先はxinyi.kokoro.omoi@gmail.comです。

同好会

この同好会の目的としては、日常に根差す武術、というところであると申しました。

日常の中での事も考察し、心意をやる、という感じです。

切り分けて技がこう、だけではありません。

その点は前にも挙げたし、同好会にてもちょくちょくやりたいと思っています。


当然武術なので技をやるのですが、たくさんはやりません。

たくさん技を知ってる、と語る輩は大勢いますが、知ってるだけで使えるかどうかなんてわかりませんし、出なかったら終わりです。

技はシンプル、かつ少なく。

だけども、それだけやってればいいわけではない。

半歩崩拳あまねく天下を打つ、なんて事を昔のある内家拳術家がいっています。これは崩拳をやっていれば、天下全てに轟く程のものなる!という意味…ではありません。

それだけやれば戦えると思うとお間違いの大火傷です。


大きく学んで、小さくまとめる、というようなものです。

実際ほかの教育や勉強などもそうだと思います。

これが使える使えないなどは、やる本人が選ぶので、これだけやってればいい、とかいうのはありません。

でも、やっぱり最初は身体をつくります。技より前に理解と身体の動きを知ることです。


また、男女を問いません。ガリガリだからとか、背が低いとか、女だから、とかありません。

身体は人間ですので、五体があって、意思があれば男女だろうが関係ありません。

女だから、力がないとかは関係ありません。同じ人間です、何も違いませんし、動ければそれでいいです。そこにほんの少しの興味があるだけでも構いません。


男に比べると力は劣るかもしれません。でも劣らないかもしれませんが、だからなんなんでしょうか?

がっぷり四つで力比べをするつもりでしょうか、とかく女だと力が弱いとか、か弱いとかいう表現がやたら多いように思います。

力の弱い女性でもできる◯◯…とか。男でも十分力の弱い人もいます。


武術としては、力の強い弱い関係ありません。

力を抜いて出すので、強弱とは観念が違います。

先に挙げた間合いの話も見てもらうとわかるかと思います。

そもそもそこからが違うので、出発点が違うわけです。

物をもてば、単純に攻撃力も上がります。傘なんかは最高です。女性は傘を日頃から持ち易い特性もあります。扱い方を知らないだけで、知れば有事の際もなんとかなるかもしれません。


なので、男女関係ありません。

無理とか、出来ない、で終わらせたらそこで終わりです。

男はできて女にできない、なんてアホな事はありません。

続けてやろっかな〜と思う本人の意思です。


当然敵としてみなす輩がいれば、逃げる為にどうするか、最終的には覚悟をきめてやる事もあるでしょう。

そんな時に男女がどうとか関係あるでしょうか。まぁ、どうでもいいですが。

じゃあ逃げましょうとなったら、逃げるにはどうゆう方法で逃げるのか、やるとなったらどこまでやるのか、周りは、法的には大丈夫か?

が大事です。

そこらを武術でやる、もしくは武術的にという事です。


ということで、一緒に練習しませんか?

xinyi.kokoro.omoi@gmail.com

心意

心意では、打ち合いなどの訓練はしません。中心を取り合うという動きを力を抜いてしますが、私はあんまやりません。

構えあってのヨーイドンでやり合う事はしないのです。

お互いを探り合って、叩き合う事はしません。


一番いいのは、こちらが有利で相手が不利である状態を、仕掛けの段階から最後まで維持することです。相手には何もさせません。

抵抗するだろ、とのお声がかかりそうですが、その間合いではやりません。

中間の間合いで殴り合う、蹴り合う、というのがそもそもないのです。


心意は槍からきています。これが理由です。


そして必ず移動を含みます。というか、含まざるを得ません。

止まって打つというのもありません。


その距離であるから、相手のどちらかに入ることができます。その入る方法が重要ですが、ここでは長くなるので述べません。


上下左右なくして入る事はかないませんし、そもそも、ずり込むといいますか、相手の背面もしくは、横に入る事を是とします故に、正面での叩き合いにはならないのです。

これが理由で格闘技とは別物であるというわけです。体力と体格勝負ではありません。

間合いが存在するので、そもそもの体格や体力差が関係なくなります。


柔道はクラスで分かれているのに、剣道にクラスはないのは何故でしょうか?

物をもっているか、ないかです。必ず間合いが発生しますが、物をもっている方はその物をなんとかしようとしますし、小手を打って入る、胴抜きなど、相手を抜きます。

素手であると、つかみ合い、もしくは叩き合いになっています。物を持つ統一性がないのと、その距離とつかみにかかることのみの術しかないので、つかみ合いになります。


当然ながら、その昔の柔道には当て身の術があったといいます。危険なので、後になくなったとの事ですが、その当て身こそが接近して掴むための過程で必要な術であります。


こう言った理由から、武術と格闘技やスポーツとはまた違ったものである、という事であります。


また、接近してからボコボコにするのはするのですが、小手先を使いません。最初から最後まで小手先を使っての動きをしません。すると心意ではないものになります。

接近・密着して重心を崩します。重心とは重心です。丹田とは違います。


ちなみに丹田は不老不死の薬をなんたら…とかいいますが、残念ながら作れません。

身体のコントロールセンター的な使い方をする、と心意ではいいましょうか、そこを意識するから気がどうとか、身体ががっちりする、とかではありません。意識して使うので、動きます。そこが動くので、コントロールセンターをなんと言おうか…あ、丹田って言おう、という感じでいいです。


難しいですね、忘れてください。


当然呼吸や腹を練るわけですが、そこはあまり意識する事なく、動きや身体を作るというのがまず第一です。


重心に戻りますが、要するに動けない状態です。ふつうに立ってる状態から押されたら、体勢が崩れます。わかりやすくいうと、これです。

ドンッ!と押すのではありません。

この状態を生起させ、相手の実の実をとるわけです。

当然ながら、ここまでやる過程が大事なのです。

そう簡単に接近接触密着できれば術など必要ありません。


女の子、もしくは男と近づきたいと例えるとわかりやすいでしょうか。

女・男と話して仲良くなりたい、その仲良くなるまではなかなか難しいものです。

もうだめだとなったら…悲しいかなお金を払って強制的に話すシチュエーションのところに行く人もいるわけです。そのあとは、特になにもなく、虚しい感じがしばらく残る感じです。

極端ですが、捉え方次第では似てるかなと思います。


述べてきたものは、エンドステートとしてなので、その様相は多種多様ではありますが、基本的には心意の武術はこれらをやります。


文章だけでは、なかなかわかりにくいかと思います。

興味があるのであれば一緒に練習したいと思います。よろしくお願いします。


xinyi.kokoro.omoi@gmail.com

死生

毎度、いかがお過ごしでしょうか。本格的なジメジメ季節がやってまいりました。

気分的にも、身体的にも最悪の季節であります。

精一杯萎えてまいりましょう。元気いっぱいな人が暑苦しくてたまりません。


さて、死生観とはいかなものかと考えます。

我々が平和に生きていけているのはどうゆうことなのか。

武術は何故今遺り、また師をはじめ、我々は遺そうと頑張っているのか。


その時代の目的がありました。今より壮絶なる時代です。殺し殺され、常に死が隣合わせでありました。そのために生きるために術が生まれたのであります。

武術に限らず、様々な医療や、鍛造技術や、物を作る技術などが生まれ、今に残っているのであります。

武術に至っては、世界大戦や革命により、その危険性から軒並み殺されたり、取り上げられるなど、消滅の危機にあったにも関わらず、今こうやってのこっている武術があるのであります。

伝えて遺すとは、人が獲得した至高の知恵ともいいましょうか、財産ともいえます。素晴らしい技術や知識は、遺していきたいものです。

それは、時代がかわれど、時代に沿うような形で、その原型のまま、時代に合わせるという風に遺して行く事が大事に思います。

私は日常に根差す武術としてやっていきたいと、前にも書いております。


今、この時代に生きているのも、たくさんの先人の死があってのものです。死があって生があり、知恵などがのこっていくわけです。

非常に奥深いというか、大きなものを背負っているといえます。

そういった大きさを知る事も、重要だと思いますし、使命感のようなものも多少あるわけです。


歴史の中の小さな一つとなるように、少なからずそのまま遺せるように、練習しつつ、気づきを得つつ、まったりと生きていきたいと思います。